石門心学によって広がった儒教の庶民教育-儒教が日本の労働観に与えた影響②「幸福」とは何か(その29)

石門心学によって広がった儒教の庶民教育

 庶民の教育は、一般に家庭生活および社会生活の中で行なわれ、徒弟・女中奉公生活、また若者組などの集団生活の中での教育も重要な役割を果たしました。

 庶民教育の中でも特に儒教による商業道徳の理論体系構築、教育に大きな役割を果たした学派として石門心学の隆盛が挙げられます。

石門心学は、初め、主に商人を対象としたものでしたが、次第に広範な勤労者の支持を得て、武士階級にまで広がり、多くの信奉者を得ました。

石門心学は、石田梅岩(1685年 – 1744年)が、長年の商家勤めを退職し、享保14年(1729年)に、京都で初めて講座を設けたのが始まりと言われています。

梅岩の思想は儒学を中核としていますが、神道、仏教、儒教のいずれについても並々ならぬ知識、見識を持っていたことが知られています。

梅岩は、初めは神道に傾倒し、後、独学を中心として儒教を学んでいますが、直接に師と仰いだのは、小栗了雲と言う曹洞宗の在家禅者です。小栗了雲を通じて、先に述べた禅僧、鈴木正三の影響を受けていたと考えられています。鈴木正三は、士農工商の身分制度の枠組みの中ではありますが、それぞれの職分を全て有意義なものと認め、各々諸の職分に励むことが仏道の正しい行いであり、平等に成仏できると説きました。

石田梅岩はこの思想をさらに一歩進め、自らの商家勤めの体験と、経済における流通業の機能に対する深い洞察を踏まえ、特に商業の使命称揚と商人の倫理体系構築に努めました。

当時主流の儒学思想は、農本主義の傾向が強く 、商業の価値を低く置き、 商人を蔑視する思想でした。

梅岩の思想が画期的であったのは、社会、経済における商業の意義を重要なものと認め、『小人の買利も天下お許しの禄なり』とし、商人の利益は武士の俸禄と同じであり、商人の使命を天命に適うものとし、働く誇りを高めたことです。

石田梅岩は、商業の機能は交換の仲介による付加価値にあり、経済における流通機能の価値は他の職分に劣らず重要なものであるとし、商人の存在意義を、自身の経験から論理的に説明し、正当性を主張しました。

倹約の奨励と、利潤の正当性を認める思想は、資本の蓄積と再投資を積極的に認めるものであり、資本主義発展の哲学的原動力となるものです。

これは、西欧におけるカルヴィニズムの、倹約の奨励や富の蓄積を天命の実現と見る考え方に通ずるものであり、アメリカの社会学者、ロバート・ニーリー・ベラーによってカルヴァン主義商業倫理の日本版と評価され、日本の産業革命成功の原動力ともされました。

一方で梅岩は、受注額の多寡にかかわらず顧客を尊重すること、仕入先と公正な取引を行い、下請けいじめのような行為は慎むことを商人の心得としました。

梅岩は、当時の儒教アカデミーの学者ではなく、在野の研究者ではありましたが、四書五経をはじめとする儒教の古典の広く深い読み込み、洞察を、商業の実務家としての経験に適用することで、極めて実践的な労働倫理の体系を組み立てました。

梅岩の思想に通底するのは、儒教の世界観に基づき、経済全体を俯瞰する、全体最適の視点であり、全てのステイクホルダーの働く幸福を尊重する考え方です。

 その思想は、近江商人の「三方よし」の精神にも通ずるところがあり、明治維新後、渋沢栄一が説いた「道徳経済合一説」『論語と算盤』にまでつながっていると考えます。

石門心学の経営思想はCSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)を先取りしたものとも言われ、今も再評価が進んでいます。

石門心学の教育機関である心学講舎は、心学中興の祖と言うべき手島堵庵が1765年に「五楽舎」を開いたのが最初であり、最盛期には全国に180カ所以上あったとされており、庶民教育の上に大きな役割を果たしました。

(松島 紀三男 イーハピネス株式会社 代表取締役)

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参考文献:

石田梅岩『都鄙問答』岩波文庫

R.N.ベラー (著), 池田 昭 (翻訳)『徳川時代の宗教 』(岩波文庫)  1996

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