吉田松陰『留魂録』今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。

吉田松陰『留魂録』今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。

NEW!2020-06-08 18:53:37テーマ:「幸せ」コラム

今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。『留魂録』吉田松陰

松陰は云う
 

人の一生は四季のようなものだと
 

「自分はもうすぐ死ぬが実りの秋を迎えようとしている
春夏秋冬、農民は春に種をまき秋に収穫の時を迎えるのを、
喜ばないものがあろうか
とはいえ人の一生は農事とは違って定まりがない
十歳で死ぬ人も、五十、百で死ぬ人も、
自ずから四季が備わっている
私は30歳、既に四季は備わっている」


脳梗塞になって、自ずと生と死を意識した

吉田松陰の『留魂録』は、
処刑を前にして遺書として書かれたものであるが、
勇気づけられる

脳梗塞で入院していたときは、 
ふと、遅々として改善が思うように進まない症状や、
どこまで改善するだろうかと悩むときがあった

そんなときに
松陰の『留魂録』は、
どんな人の人生も、
まるごと、美しい四季の移ろい
だと励ましてくれた


『留魂録』 第八章
今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。蓋し彼の禾稼|を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを欲求悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば借しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。
何となれば人寿は定りなし、柔稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは無姑をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして態姑たらしめんと欲するなり。

斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時己に備はる、亦秀で亦実る、其の枇たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。同志其れ是れを考思せよ。

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