「幸福」とは何か(その2)幸福は快楽か

「幸福」は「快楽」か

「快楽説」の長所と問題点

「快楽説」は「快楽」が本人にとって善なるもの、すなわち「幸福」であり、「苦痛」が悪、すなわち「不幸」であるいう考え方です。

「快楽説」の長所はまさにこの基準の明快さにあります。原理的に単純明快なことは、思想としてレベルが低いということではありません。

しかし「幸福」を「快楽」に一元化する思想ゆえに、古代から強い批判にさらされてきたことも事実です。「快楽説」に対する有名な反論として知られているのは、古くはプラトンが[i]で指摘している、痒いところを掻いている「快楽」は確かに気持ちいいだろうが「幸福」とは言えない、というものが典型です。すなわち、苦痛からの解消としての「快楽」は「幸福」と呼べるか、という批判です。

「快楽」に、「幸福」に結びつく「快楽」と、快くはあるが「幸福」に結びつかない「快楽」があるか否かという問題提起ということができます。

また、古くからある「快楽説」に対する批判として、博打や飲酒などの低俗で刹那的な快楽、盗みや詐欺などによって得られる不道徳、反社会的な快楽、そして虚偽の信念に基づく快楽も「幸福」として認めるのか、というものがあります。虚偽の信念に基づく快楽とは、当人は事実と信じており、幸せと感じていることが、実際は誤りである場合、例えば当人は家族から愛されると信じているが、実際は嫌われているといった場合を言います。

さらに、現代に至って、「快楽説」に対する有名な反論として知られているものに、R.ノージックの「経験機械」による思考実験があります[ii]。「経験機械」とは、どんな望ましい「快楽」につながる経験も与えてくれる機械のことで、そういう機械があると仮定します。果たして人間は、一生それに繋がれていることを望むか、というものです。

この批判は、仮想的な心理的経験ではなく、現実の行動によって獲得する結果でしか「幸福」とは認めないのではないか、「幸福」とは単なる心理的な状態としての「快楽」のみを指すものではなく、意義のある目的を持った現実の経験を伴うものであるはずだというものです。

「快楽」をどのようなものと見るか

「快楽説」への最も本質的な批判は、「幸福」を、動機や目的、実際の行動による経験を問わない(それらを評価できない)、心理状態である「快楽」のみに一元化できるか、という問いです。

そこで「快楽説」を巡っては「幸福」に結びつく「快楽とは何か」について検討することが、第一の論点として見ていきたいと思います。そのために、これからまず、「快楽」を「善」(「幸福」と同義と言って良いと考えます)とする思想のルーツというべき、古代ギリシアの哲学を取り上げることにします。

「快楽説」を意味する英語、「Hedonism Theory」の語源となっているのは、古代ギリシア語の「ヘードネー」(ἡδονή=hedone)ということばであり、「快楽」を意味します。この「快楽」をどのようなものと考えるかは「快楽」を「幸福」の原理、指標にしようとする哲学者の間でもずいぶん違いがあります。

次回は、「快楽主義」を代表する最も著名な哲学者、エピクロスの思想から見ていきましょう。


[i] プラトン『ゴルギアス』

[ii] ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(Nozick 1974

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