「幸福」とは何か(その6)「快楽」は合計できるか?

異なる「快楽」を一元化できるか

「快楽」の内容を問わず「幸福」を感じる心の状態、快さを一元的基準にするということは、幸福度の大きさを一元的に測定するには極めて便利です。つまり批判の論拠はそのままメリットにもなり得るということだと思います。

「快楽」を一元化するということは異なる「快楽」を同一の尺度に換算して合計し、比較できるようにするということです。

このような考えに立った典型的な例として、先に紹介したアリスティッポスを始祖とするキュレネ学派と、18世紀イギリスの哲学者・経済学者・法学者、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham、1748年-1832年)をあげることができます。

アリスティッポス、キュレネ学派は次のように言っています[i]

①(違う種類の)快楽と快楽との開に(質的な)差はない。

②ただし、精神的な快楽よりも、肉体的快楽のほうがはるかに優れている。苦痛についても、精神的なものよりも、肉体的なものがずっと悪い。

③快楽は、苦痛がないという状態のような静的なものではなく、動的な肉体的、精神的運動の中にある。

④幸福は、部分的な(個々の)快楽を合わせ集めたその総計である。その中には過ぎ去った快楽も将来起る快楽も含まれている。

ベンサムは「功利主義」の創始者として知られていますが、彼は「幸福計算」と呼ばれる、「快楽」を定量的に合算することで「幸福」量を算出する計算式を考案しました。ベンサムの思想は、経済、社会全体の「幸福」、「従業員幸福度」を考える上で重要なので、後ほど、また詳しく述べることとします。

この「快楽」を一元化する考え方は、調査の測定指標と極めて親和性が高いだけに「幸福度」の測定指標にも通じる部分があります。主観的「快楽」をアウトプットとして評価するのは、「幸福」の大きさを定量化しやすく、「従業員幸福度調査」の「Happiness」のアウトプット指標としても有用と、筆者は考えています。

筆者の主催する「従業員幸福度・EH調査™」でも幸福度のパフォーマンス指標は「快楽説」を採用していると言ってよいでしょう。これは測定しやすさという理由によって採用しているというのではありません。人間の「幸福」は当人の主観的幸福の実感そのものであるという理由によります。

「幸福」=「快楽」とし、それ以外の一切の要素を考慮しないとする、「快楽」一元論に徹すると、確かに「快楽説」に対する批判が当てはまるのは事実であると思いますが、「幸福」を構成する一要素、「幸福」の測定指標として見た場合、現代でも大いに存在意義があると筆者は考えています。

筆者が開発した「従業員幸福度・EH調査™」では、この問題に対応するために従業員が何によって「幸福」を得たかが統計的に解析できるようにしてあります。


[i] 新宮秀夫『幸福ということ』NHKブックス p53

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