「幸福」とは何か(その4)刹那的、肉体的快楽を認め「今を楽しむ」ことを肯定するアリスティッポス

刹那的、肉体的快楽を認め、「今を楽しむ」ことを肯定するアリスティッポス

「キリギリス的快楽も、それはそれでいいではないか。」という、我々が通俗的な意味で理解する「快楽主義」に最も近いのが、同じ古代ギリシアの哲学者アリスティッポス(Aristippus 紀元前435年-356年)の思想です。時代的には、エピクロスよりも先行しており「快楽主義」の祖とされています。エピクロスの「快楽主義」は彼の思想を、ほとんど正反対と言っていいほど修正したものと言えるでしょう。

アリスティッポスは、ソクラテスを慕ってアテネに行き弟子となっていますが、ソクラテスが決して受け取らなかった説法の謝礼を、彼は積極的に受け取るなど、その異端ぶりは際立っています。贅沢な暮らし、美食や高級ワイン、性的享楽による官能等を謳歌し、「肉体的快楽」の方が「精神的快樂」よりも大きいと主張したとされています。

刹那的な快楽、肉体的な快楽を積極的に肯定したので「快楽の奴隷」などと攻撃されましたが、それらを人間の本性として認め、向き合ったと見ることもできます。

彼は「将来の『快楽』のために、手元にある『快楽』を先送りするべきではない」と教えました。エピクロスがあくまでも結果としての「快」「幸福」を重視するのに対して、 日常生活における、その時々の幸福感としての「Happiness」を積極的に肯定する立場と言えます。

また「最高のことは『快楽』を控えることではなく、『快楽』にコントロールされずに、それらをコントロールすることだ」と述べました。[i]

古来、偉大な哲学者と言われる人たちの思想は、枯淡の境地とも言うべき、いわば「悟り」を開いた末、たどり着いた思想をまとめたものが多いように見受けられます。人によって例外はありますが、年齢的にも壮年期から老年期に至って確立されたものが多いので感情的、肉体的欲求も青年期のほとばしるようなエネルギーは減退し、精神的にも克服できている場合が多いと思います。

長い年月を経て、たどり着いた境地なので、やや聖人君子の理想論にすぎるきらいがあり、日常生活の上で実践していくのには、大変な克己心が必要なものも多いものです。美しいけれど大多数の人々に実践困難な規範は、しばしば建前と本音というダブルスタンダードを生じがちです。

そうすると、人々は形骸化した規範に後ろめたい罪悪感を持ちながらも、糸の切れた凧のような、欲求の放縦を制御できないアンビバレンス(両面価値)に悩むことになります。

時代と地域が異なる中世日本のことですが、親鸞は、そのようにして形骸化し、多くの人々を救えていない既成の仏教界の偽善を厳しく批判しました。

筆者は、アリスティッポスの思想を全面的に受け入れるものではありませんが、人間の本性としておおらかに受け入れた上で、自己の適切な管理下に置くという考え方は、自然で現実的なものだと考えます。


[i] Internet Encyclopedia of Philosophy https://www.iep.utm.edu/aristip/

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