「口は禍福の門なり」 渋沢栄一『論語と算盤』
「口は禍福の門なり」 渋沢栄一『論語と算盤』
(前略)
口舌は禍の門であるだろうが、ただ禍の門であるということを恐れて一切口を閉じたら、その結果はどうであろう。
有要な場合に有要な言を吐くのは、できるだけ意思の通ずるように言語を用いなければ、折角のことも有邪無邪中に葬られねばならぬことになる。
それでは禍の方は防げるとしても、
福の方は如何にして招くべきか、
口舌の利用によって福も来るものではないか。
もとより多弁は感心せぬが、無言もまた珍重すべきものではない。
(中略)
余のごときは多弁の為に禍もあるが、これによってまた福来るのである。
例えば、沈黙していては解らぬのであるけれども、
一口を開いたために、人の因難な場合を救ってやることができたとか、
あるいは喋ることが好きだから、 何かのことにあの人を頼んで口を利いてもらったら宜しかろうと頼まれて、物事の調停をしてやったとか、
あるいは口舌のあるために、種々の仕事を見出すことができたとかいうように、
全て口舌が無かったら、それらの福は来るものではないと思う。
して見れば、これらは誠に口舌より得る利益である。
口は禍の門であるとともに、福の門でもある。
芭蕉の句に「ものいへば唇寒し、秋の風」というのがある。
これも要するに、口は禍の門ということを文学化したものであろうけれども、
こういう具合に、禍の方ばかり見ては消極的になり過ぎる。
極端に解釈すれば、物を言うことができないことになる。
それではあまり範囲が狭過すぎるのである。
口舌は実に禍いの起こる門でもあるが、また福祉の生ずる門でもある。
(後略、傍線筆者)
とかく日本では
「口は禍いの元」などと、口舌の害を強調することが多い気がしますが、
弁舌の有用性、言うべき事を言うことによって
幸福を招き寄せることの重要性を強調していることが、
さすが渋沢栄一だなあと思います。
やはり日本では、人によりますけれども
一般に自己抑制が強すぎて発言を控える人があまりに多いと思います。
元々発言が消極的なところに、
企業や官庁など日本の組織では、ポスト、社会的地位の上下関係に忖度して、
積極的に議論するということができないという
日本企業や官公庁組織の問題も大きいと思いますね。
会議や議論の場合、肩書きや組織内の地位、社会的影響力は外して
対等平等に発言しないといけない。
それが日本の場合、忖度してメンバーが自己規制してしまう、
元々自己抑制的で従順な国民性と相まって、
議論では発言しないことがわきまえることになってしまう。
やはり欧米の議論の伝統は古代ギリシャから始まって大したものだと思います。
帝国主義的侵略や、有色人種差別など悪いところも色々ありますが、
そういうところは日本の弱点だと思いますね。
だから間違った決定がそのまま通ってしまう、
誤りだと気づいてもなかなか修正できず、死屍累々の被害を拡大させる。
それがマクロ幸福論的な観点から言うと
日本全体の幸福な社会づくりを、著しく損なっていると考えます。
深刻な日本的「失敗の本質」のくり返しから、いい加減卒業すべきです。
ぜひこの問題を克服して、
言うべきことを言うべき場において、勇気を持って発言するという個人、社会、組織になってほしいものです。