「幸福」とは何か(その3)誤解され続けてきたエピクロスの「快楽主義」

最終的に大きな精神的「幸福」を目指す、エピクロスの「快楽主義」

古代ギリシアの哲学者エピクロス(紀元前341年–270年)の思想は「快楽主義」と言われ、今日「快楽主義者」という意味のことば「エピキュリアン」に名前をとどめ、「美食家」という意味でも使われます。

エピクロスは「幸福」につながる「快楽」をどのように定義しているのでしょうか。エピクロスは「快を、第一の生まれながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、すべての選択と忌避を始め、また、この感情(快)を規準としてすべて善を判断する」[i]としました。エピクロスの思想が「快楽主義」といわれる所以ですね。そして、目的とする「快」として「われわれの意味する快は、肉体において苦しみのないことと霊魂おいて乱されない(平静である)こと」[ii]としています。

逆に「快」の生活を生み出ない具体例として「続けざまの飲酒や宴会騒ぎ、美少年や婦女子との遊びたわむれ、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽」を挙げています。エピクロスがあげた「快」でないものにも、筆者は捨てがたい魅力を感じますが、そういうものは真の「快」でないと言っています。余談ですが、感心しない「快楽」の例として、美少年とのたわむれを挙げるところが、いかにも古代ギリシアらしいですね。

エピクロスの思想は日本語でも「快楽主義」と言われますが、その通俗的に想起されるイメージから誤解を受けてきました。これは西洋においても同様であり、エピクロス存命当時から、意図するところとは真逆と言っていいほどの誤解を受け、攻撃されてきた気の毒な思想と言えます。実際エピクロス自身も、著作の中で自己の思想が正反対の意味に誤解されていることを嘆いています。

エピクロスの「快楽主義」で、もう一つ重要なことは、選択すべき望ましい「快」は最終的に何がより大きな「快」(=大きな善)につながるかを基準として判断すべきだ、と言っていることです。要するに結果が大事ということですね。こういう考え方を、倫理学では「帰結主義」と言います。反対に、結果に至る過程での努力や行為の正当性を重視する考え方を「非帰結主義」と言います。

エピクロスは「長時間にわたる苦しみを耐え忍ぶことによって、より大きな快が我々に結果するときには、多くの種類の苦しみも、快よりむしろまさっている[iii]」とし、大きな目的実現のため、長期間の艱難辛苦に耐えるストイックな姿勢を積極的に肯定しています。「臥薪嘗胆」こそ、より大きな「快」すなわち「善」への道というわけです。

イソップ寓話の「アリとキリギリス」で言えば、冬に備えて長期間汗水たらして働くアリを、積極的に支持する立場と言えるでしょう。

エピクロスの「快楽主義」は、言葉から受けるイメージよりも、実はずっと禁欲的だと思います。


[i] エピクロス (出隆・岩崎允胤訳)『教説と手紙』 129 岩波文庫 p70

[ii] エピクロス (出隆・岩崎允胤訳)『教説と手紙』 132 岩波文庫 p72

[iii] エピクロス (出隆・岩崎允胤訳)『教説と手紙』 129 岩波文庫 p70

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