「幸福」とは何か(その16)古代ギリシア、アリストテレスが拓いた幸福論

幸福論の曙~アリストテレスが拓いたエリートの幸福論

「幸福論」の始祖をアリストテレスとすることは、衆目の一致するところと思います。幸福について論じた数ある著作の中で、多くのものがアリストテレスの「幸福(エウダイモニア)論」について語るところから筆を起こすことからも明らかです。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において幸福を体系的に論じています。「我々の達成しうるあらゆる善のうちの最高のものは何か。人びとの答えは一致する。それは幸福(エウダイモニア)にほかならない。」[i]という記述はあまりにも有名です。「幸福こそは究極的・自足的」なものであり、「あらゆることがらの目的」[ii]としました。

一方で「だがひとたび、その『幸福』とは何であるかという点になると、ひとびとの間には異論がある」とし、今日に至るまで続く「幸福論」の百家争鳴ぶり、幸福を特定することの難しさも示唆しています。

アリストテレスは幸福な生活には三種類あると分類しました。[iii]

第一は「快楽」(ヘードネー)を善、幸福とする享楽的な生活

…最も低俗な人びと、「畜獣」「奴隷的」人間の幸福

第二は「名誉」を善、幸福とする「政治的」な生活

…思慮、規律を持った実践的活動をしている人びとの生活

第三は「徳」「卓越性」(アレテー)による真理の探究を善、幸福とする「観照的」な生活

…高貴さ、矜持を持って、いかなる苦難も克服する、卓越した魂の活動としての神々に比すべき幸福

アリストテレスは、以上の三つ以外に「蓄財的生活」もある種の生活として挙げていますが、富は手段であり、目的とはなり得ず、幸福な生活ではないとして退けているのは興味深いですね。現代の資本が自己目的と化したような「カネ」だけの経済、そのような企業経営は幸福を産まないことも同様だと思います。

アリストテレスは、第一の動物的「快楽」を幸福とする享楽的な生活を、最も低俗で動物、奴隷の幸福と蔑んではいますが、そのような幸福もあることを容認しています。こういう所は、アリストテレスの懐の深さを感じます。

第二の「名誉」を善、幸福とする政治的な生活は、第一の動物的「快楽」を求める動物的生活よりは高級な「人間」的生活ですが、名誉とは、それを与えてくれる他人にかかっており、本人固有の「善」ではないから、皮相的であるとしています。これは現代のセルフエスティーム(自尊感情)の概念に非常に近いと考えます。

最高の幸福は、第三の「徳」「卓越性」による真理を探究する「観照的」な生活ですが、これは「神々の人間への贈り物」または学習、訓練による「卓越性」によって到達した神的境地とされます。「観照的」というのがわかりにくいのですが、人間的行為から脱却、超越した「純粋観照(テオーリア)」(θεωρία=theōria)の領域とされ、英語の「theory」の語源となっています。山田孝雄は「真理探究」の生活としています。よく考えると、これは哲学者の生活のものであって、アリストテレスはさぞ「自分は最高の幸福者だ」だと感じていたことでしょう。

動物の幸福、人間の幸福、神の領域の幸福と、幸福を三段階に分けた上で、真理を探究する哲学者の生活こそが最高の幸福なのだと言うわけです。アリストテレス先生は、包容力はあるけれどちょっと「上から目線」の幸福観だなあと思ってしまいます。

アリストテレスの「幸福論」は「エウダイモニア主義」(eudaemonism)とも呼ばれ、今日でも大きな影響力を持っており、現代に至る「幸福論」の開拓者と言えますが、限界もあります。

アリストテレスの「幸福論」の限界は、あくまでエリート主義の幸福論であることです。ここでいうエリート主義とは二つの意味を持っています。

一つは先に述べたように幸福に低級なものから高級なものまで序列をつけ、高級な幸福、すなわち「徳」「卓越性」こそ、智者の目指すべき、理想的幸福としたことです。

二つ目は、実際にそのような社会的エリートを対象とした「幸福論」であったことです。アリストテレスの生きた古代ギリシアの社会というのは奴隷制社会です。アテネの場合、諸説ありますがアリストテレスのような自由市民一人に対して、奴隷二~三人の割合であったと推定されています。

つまり、構成人員の大多数は奴隷的身分に甘んじていたのであり、ごく一部の特権階級である、自由市民のアリストテレスの「幸福論」は、あくまでもエリートによって書かれた、エリートのための「幸福論」であると言ってよいでしょう。

奴隷の身分に置かれたとはいえ、人間であることには変わりはないと思うのですが「奴隷を支配する術は自由人を支配する術とは異なる。それは奴隷を使用するための知識であって、大したものではない」[iv]とあり、身も蓋もありません。

歴史上の人物を評価する場合、現代の価値観で評価することは慎むべきと思いますし、古代の奴隷と人権が保障された現代の労働者を同一視することはできませんが、「従業員幸福度」をテーマとする本書の立場からは、この点が最大の限界であると考えます。

アリストテレスの「幸福論」が知的に洗練されたものであっても、多くの大衆の感じる幸福と共通部分が多くあるとしても、知的精神性に重点が置かれたものであることは否めないのです。そこには家族への愛など共通の感情はあるにしても、支配・統制され、額に汗して働く人々の喜びや苦しみ、悲しみは、実感として共有されていません。

このような知的エリートによる「幸福論」の伝統は、現代に至るまで続いており、いわゆる「三大幸福論」の著者、アラン、ヒルティ、ラッセルのいずれも知的エリートと言ってよいでしょう。

例えば、バートランド・ラッセルの幸福論の『仕事』と題した一節に「仕事は、だから、何よりもまず、退屈の予防策として望ましいものだ。」という記述がありますが、こんなところに、エリートの幸福論の限界が典型的に表れていると思います。ラッセルは決して書斎に閉じこもる学究一筋というタイプではなく、教育や平和運動、核兵器廃絶の取り組みなど、活動の範囲は極めて広く、過激な活動のせいで投獄された経験もあり、世界中の様々な人々、弱者、虐げられた人々とも心の痛みを共有した希有な学者であり、社会活動家であると思います。しかし、仕事の実感は、やはり経済的に余裕のある知的エリートの限界があり、多くの勤労者の労働、生活の実感とは隔たりがあります。

以上の通り、アリストテレスの幸福論の概略と、その時代的背景について述べてきましたが、人間の希求すべき最高善として幸福(エウダイモニア)を位置づけた点は画期的であると思います。

エリート主義という批判はあるにしても、「快楽」のような低次元とされる幸福を否定してはいません。むしろ幸福を、階層的構造として捉え、多様なあり方を認めています。これは現代の「幸福論」や、マズローの欲求段階説などにも通じるものがあると思います。

アリストテレスは「万学の祖」と呼ばれるように、その研究、業績は非常に広範であり、幸福を論じた倫理学から、論理学、自然学、芸術、教育論、法律、政治学、経済学に至るまで、およそ考えうる限りの、全ての分野を網羅していると言っても過言ではありません。

アリストテレスが『ニコマコス倫理学』において幸福を主要なテーマとして論じたことで、幸福は倫理学上の中核的領域になりました。倫理学とは人として善き行いの根拠を研究する学問であり、論理学や認識論、美学・芸術学と並んで哲学の中核をなしています。今日でも倫理学の領域において幸福は主要なテーマとして盛んに論じられています。(松島 紀三男 イーハピネス株式会社 代表取締役)

前の記事↓
https://e-happiness.co.jp/the-future-is-the-present-happiness/


[i] アリストテレス 『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 p20

[ii] 同P31

[iii] 同P22

[iv] アリストテレス 『政治学』

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