「怒りとうまく付き合い、生産的エネルギーに転化する」アンガーマネジメント② 幸福度・EHを高めるには(その4)

「怒りとうまく付き合い、生産的エネルギーに転化する」

喜怒哀楽と言います。

感情があるから人間なのです。

「怒った手紙は一晩寝かせよ」との戒めがあります。

投函してしまうと取り返しがつきませんが、一晩寝かせると、冷静な頭で自分の書いた手紙を見直すことができます。

脳梗塞で入院している時、強い怒りをぶつけたことがあります。

 急性期入院中で、発症間もない頃 、病院の手違いでおかゆのはず(誤嚥対策)なのに普通の米飯が出されたので、取り替えて貰おうと残していたら、

食事を下げに来たパート職員が、私に下げていいか尋ねはしたものの、

咄嗟にうまく喋れずにいると、何と勝手にいらないと判断したのか、

よく確かめもせずに、あっという間に下げて逃げるように消えてしまったのでびっくりしました。

忙しいのは分かりますが、あまりの感受性と配慮のなさに、激昂してしまいました。

 まあ、怒りそのものは正当な理由と思いますが、あそこまでエキセントリックに大声を出すことはありませんでした。

 他に患者さんもいるのに、迷惑かけてすみません。

なぜ、自分でもビックリするくらい怒ったのか。 

よく考えると、強い怒りに理由があることに気づきました。

 後遺症の負い目に関わっているらしいと気づいたのです。

 入院中は構音障害(呂律が回らない) がひどく、自分が病気でコンプレックスを感じている部分に、無神経に触れられると反射的に怒りが爆発したらしいと、自分なりに考えました。

 だが、怒りの源に気づけば、反射的に怒りを爆発させないように、冷静になれる気がします。

 世阿弥が「離心」「離見の見」 という言葉を残しています。

 演技にただ夢中になるのでなく、

自分を離れて、 後ろから客体視する「心」 

観客の立場で「見る」視点を常に持っていないと駄目だと諌めています。

怒りもまったく同じだと思います。

「離心」「離見の見」を発動させればいいのです。

私はどちらかといえば温厚だと見られていると思います。

「怒ったことあるんですか」と言われたことが何度もあります。

しかし、自分では結構怒りっぽい方だと思っています。

脊髄反射的にカッとなる、虫の居所が悪いと当たり散らすというタイプではないとは思います。 

人からは温厚だと見られているのに、自分ではおこりっぽいと思う。

矛盾しているがなぜでしょう。

温厚とみられるのは、たぶん反射的に怒るというのが少ないからだと思います。

一方、自分ではおこりっぽいと思うのは、怒りの基準となる自分の理想に厳格なところがあるのだと思います。

昨日の記事で引用した本

「アンガーマネジメント実践講座」では

自分の「コアビリーフ」(自らの理想や願望)が裏切られると、

人は「許せない」という気持ちになり怒りを覚えると言います。
(『アンガーマネジメント実践講座』安藤俊介著、2018年、PHP 研究所)

私は色々な面でこのコアビリーフが多く厳格な感じがします。

だから反射的に怒りを撒き散らすということは少ないけれども、内心ではイライラすることが多いのかと思います。

 安藤氏は

「怒りの思考をコントロールする」

ことを勧めています。

「何々をすべき」という自分が信じる理想の基準、

コアビリーフに照らして

「許せるゾーン」

「まあ許せるゾーン」

「許せないゾーン」

の3つがあるとのことです。

このうち、

「まあ許せるゾーン」を広げるといいのです。

逆に「許せるゾーン」「まあ許せるゾーン」が病的に狭く、

「許せないゾーン」が異常に広い人をクレーマーというのでしょう。

自分の狭量なコアビリーフの虜となり、

周りの状況が見えない、

相手の事情への思いやりができない人間にはなりたくないものです。

しかしどんどんハードルを下げるだけというのも考えものです。

確かに怒りはしないが、

流されるだけの人間になってもいけないと考えます。

「これだけは譲れない原則」をしっかり持つ

ことも大切でしょう。

しかしそれ以外のことでは、

自分の「期待、願望」への「我執」を捨て去った方が、

「いい関係」づくりにつながるような気がします。

「怒り」を感じたら、

まず

「反射」はやらない

しかし闇雲に

「我慢する」

また、自分の狭量な「許せない」基準に

「こだわる」

のでなく、

「よく考えよう」

ということをお勧めします。

「怒り」にも、その動機の違いによって、いくつかの次元があると考えます。

1.本能的怒り

動物的怒りと言っても良い。

単に自己の欲求に相手が沿わないということに怒りを爆発させる。

ストーカー犯罪等が典型。

2.自己利害的怒り

一応相手の立場を認めている。

その上で自分の期待通りにことが運ばないことに腹を立てる。交渉に負ける等。

3.規範的怒り

社会的規範から逸脱した行動に怒る。

だが怒りの根底にはまだ自己の利害がある。

並んでいる列に割り込む等。

4.援助的怒り

家族、友人、知人等を守る為に怒る。

自己犠牲的怒りとも言える。

5.社会的怒り

自己の利害を超越した怒り。

怒りの対象が自分の身近な人にとどまらず

地域、社会全体、全世界等、広範囲に及ぶ。

革命のエネルギーはこれでしょうか。

以上、怒りをその動機に基づいて分類してみましたが、

「怒り」という感情の是非も、

その動機となる目的の価値で考えてみたいものです。

1の本能的怒りは論外としても、

3,4,5では、

自己の利害を超えて実現すべき価値があると考えます。

問題はその目的の実現に

「怒り」が不可欠のものか、

不可欠とは言えないまでも、有用と言えるかどうかだと考えます。

目的の実現には、

行動を支えるエネルギーが要ります。

論理だけでは行動できません。

怒りが問題解決のエネルギーになることは、認めても良いのではないかと思いますがいかがでしょう。

ただし、唯一無二の方法ではありません。

怒りでいがみ合いが生じている場面を、機転の効いたユーモアで笑いに変えて、

一気に問題解決できる人もいて、とても粋だと感じます。

でも、そんな芸術的な解決は美術館の展示物にはなっても、巷に溢れる需要は到底満たせないでしょう。

反射的に怒りを感じることは、人間の自然な営みとして認めても良いのではないかなと漢字ます。

要はそのまま発散さえしなければいいと思うのです。

私は、人間が不完全な存在である以上、大多数の人間から怒りを消し去ることは現実的に不可能と考えます。

好ましい感情とは言えないが、無理に消し去ることはできません。

厳しい修行を積めば怒りを克服することは可能かもしれませんが、

それをできる人間は限られています。

パレートの法則に照らして、8割の人間は怒りを完全に克服できないでしょう。

怒りという悪友と上手に付き合う道を探るのも良いのではないかと思います。

怒りと行動を考えるにあたり、

私は「怒り」をどうしようもない人間の性、自然な心の動きとして認めることにしましょう。

異論があるかもしれませんが、怒りは火のようなものです。

用心深く取り扱う、

むしろエネルギーとして上手に制御して活用するしかないのではないかと考えます。

人間とは不思議な生き物です。

素朴な動物的欲求にも、

高度な政治的理念の義憤にも、

怒りの感情の裏打ちがあります。

夕陽を見て美しいと感じるのも、

難解な芸術作品を鑑賞し美しいと感じるのも「美しい」という反応には常に感情が伴うことに変わりはありません。

怒りにも美的感動にも、低次から高次のものまであり、

共に共通の感情が裏打ちされているのは、人間ならではの反応である。

ただし、これは感情の赴くままに行動すれば良いというのではありません。

論理的に熟考して判断すべき事柄を、

怒りの感情の赴くまま、

拙速に意思決定、行動することは極めて危険です。

人間は感情から逃れることはできませんが、

論理的判断と意欲という感情をエネルギーとした行動を、

訓練によって切り離して操作することは可能であると考えます。

判断は論理的にクールに、 

行動は感情のエネルギーを持ってホットにということです。

人間は弱い存在だから、勇気が持てない時もあります。

わかっちゃいてもやる気が出ない時もあります。

そういう時に自分を奮い立たせ、背中をドンと押してくれる。

クールな頭で最善と思える判断ができたなら、

怒りを種火にして勇気の炎を燃え立たせるのもいいんじゃないかと思うのです。

ただし、火の始末には十分気をつけて。

鈴木大拙の

「無心ということ」の中に、

道元禅師が中国留学で何を学んだかと人から尋ねられた時、

「自分は柔軟心を得た」ということが書いてあります。

柔らかければ色々な物を納めることができるが、

何か硬いものを蔵していると

「われが」と言って頑張る。

なるべく自分がなくならなくてはいけない。

なんだかそこに頑張るものがあると喧嘩してしまう、

と述べられています。

「何々であるべき」という

期待が怒りの感情を生むのであれば、

そもそも

期待をするのをやめれば良いのです。

根本的解決はこれしかないのではないかと考えます。

自分が「期待」という物差しを

会う人会う人に当てて、

彼は何メートル足りない、

彼女は何センチ足りない、

この人はさすがだ何ミリ上回った、

などと一喜一憂していれば、

期待に届かない人が多くて

イライラがつのり<心が休まる暇がありません。

パレートの法則に従うとすれば、

8割は怒らなければならないことになります(笑)。

期待することをやめればいいのです。

お恥ずかしい話ですが、

以前は、こちらが挨拶しても、

相手が挨拶を返してくれないとムッとしていました。

純粋に挨拶の気持ちを示せばよいのに、

「ご褒美」を期待していたのです。

それに気づいてからは、

相手の反応に関わらず、

挨拶をすれば心は常に晴れやかです。

そもそも

他人への「何々すべきだ」という期待は

自分の理想、願望、コアビリーフを投影したものです。

もともと

「私」が生み出した基準を

あたかも世の中の客観的規範と同一視してしまうのです。

「我」を通して眺めているものを

「これが世界だ」と断定してしまうのです。

「私」の「期待」が「共通の正義」と一致することは多いと思います。

ときには勇気を持って

「私の期待」と一致する

万人の「理想」のために行動することも求められるでしょう。

しかし、そういう時でも

「我」という意識を通して世界を見ていることを認識し、戒める謙虚さを持たねばならないと考えます。

私は、

「巨悪は善より生ず」

が持論です。

自分の欲から生じた行為は

悪いという自覚があるから、

せいぜい「小悪」でおさまる。

コアビリーフの「善」という自覚に基づく怒り、行動は、

なまじ「正義」という自負があるから、

ときに、

とんでもない「独善」の怒りが大きな厄災をもたらします。

自称「正義」同士の「怒り」のぶつけ合いは、

しばしば

どちらかが破滅するまで終わりません。

「正義の怒り」のパワーはとてつもなく大きいのです。

自分の見ている世界は

常に「我」というフィルターで 加工されています。

それを客観的と思うのは、デジカメの撮って出しのjpeg画像を

客観的実物がそのまま写っていると、勘違いするようなものです。

そもそも人間の感覚でとらえたものは、実体ですらありません。

実体という概念すら人間の造り出した虚妄であり、

そんなものはどこにもないのです。

「素朴実在論」的認識を卒業したところから哲学は始まります。

「怒り」の哲学もまた、コアビリーフという

素朴な断罪のくびきから、

自分を解き放つことから始めねばなりません。

期待しないというのは、

木石のように一切考えることをやめる、

何も感情を持たないということではありません。

期待はしないが

好ましい変化があることを尊ぶ。

それでよいではありませんか。

一見ペシミスティックで消極的なように思えるが、究極の肯定だと考えます。

他者への期待は捨て去るとしても、

好意には感謝を、

美しい行動は敬意を持って尊びたいものです。

(松島 紀三男 イーハピネス株式会社 代表取締役)

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