「幸福」とは何か(その5)どのような「快楽」も「幸福」に結びつくか

どのような「快楽」も「幸福」に結びつくか

重要な論点として、低次元のものから得られる快楽、反道徳的、反社会的行為から得られる幸福感も「幸福」か、という問題があることを述べました。
「ああ、幸せ!」という言葉が思わず発せられるような日常の体験、飲食や趣味、旅行などで得られる一時的な幸福感、低俗で刹那的快楽、不道徳、反社会的な幸福感も「幸福」として認めるのか、というものです。

この問題は「快楽」の価値をどのように評価するかという問題でもあります。同じ「快楽主義」と言っても、先に述べたエピクロスの場合は、目指すべき「快楽」すなわち「幸福」の範囲を限定し、避けるべき「快楽」に価値を認めず、選択すべきものとして、精神性の高い「快楽」に「幸福」を限定するという立場でした。

対照的にアリスティッポスの場合は、「快楽」の価値を狭く限定せず、むしろ刹那的「快楽」を積極的に評価する、言わば「何でもあり」の幸福論です。

筆者は、確かに、プラトンが言うように、痒いところを掻いたら気持ちいいといった「快い」よいけれど「幸福」ではないものはあると思います。しかし本人が「幸福」と感じる限り、どんな低俗、反道徳、反社会的な「幸福」も「幸福」と認めざるを得ないと考えます。あくまで「幸福」は本人の主観的実感だからです。誤解を恐れずに言えば「幸福」の実感をもたらす源泉がたとえどんなものであろうと、当人にとって「幸福」を感じていることは「幸福」そのものと考えます。

ただし、そういう残念な「幸福」を放置して良いと言うのではありません。人間としてより良い、高次の「幸福」、利他のような崇高な「幸福」を目指すことを啓発する、そこに公教育、企業内教育などの存在意義もあると考えるのです。

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