「幸福」とは何か(その19)宗教による幸福の時代③キリスト教では労働は罰としての苦役という誤解
労働の価値を神聖視した宗教
第三は、労働の価値を神聖視、積極的に肯定することで、人びとの幸福感、経済発展に貢献したことです。古代ギリシアの哲人たちは、幸福を善としたものの、労働、とりわけ肉体労働を奴隷の苦役として蔑み、神の領域から遠い、人間ないし奴隷の業とされました。
これに対して、三大宗教は、労働を神聖視するという点で共通しています。人々の労働の価値が、宗教の権威によって、公式に神聖なものと認められたのですから、どれだけ多くの人たちに、胸を張って仕事に精励する働きがい、喜びをもたらしたことでしょう。仕事に何ら後ろめたい気持ちを持たず、宗教が労働を後押ししたことは、従業員幸福度の観点からも画期的なことであると考えます。
キリスト教では労働は罰としての苦役という誤解
どういうわけか、日本ではしばしば「キリスト教では、労働は罰として神から与えられた苦役であるので、一刻でも早く、苦しみから逃れたいというのが欧米の労働観だ」という話が、定説と言っていいほど広く流布されています。どうしてこんな話が広まったのか定かではありませんが、旧約聖書『創世記』第三章の一節を恣意的に切り取り、歪曲、過大視して、不当にキリスト教の労働観を貶めるものだと思います。
エデンの園追放後、罰とされる「苦しんで地から食物を取り、顔に汗してパンを食べる」ことは、「原罪」として労働には苦しみが伴うことを直視して受容せよということであり、労働そのものの価値を全否定したものではないと考えます。
何よりおかしいのは、ユダヤ教とイスラム教も同じく旧約聖書を聖典としているのに、旧約聖書を材料にキリスト教をことさら誹謗することです。日本では、ユダヤ教徒は勤勉というイメージを持つ人が多いと思います。しかもユダヤ教は旧約聖書のみを聖典としています。キリスト教には新約聖書もあるのに、なぜキリスト教徒だけを旧約聖書のわずかな断片を取り上げて「勤勉でない」と多くの日本人は貶めるのでしょう。
その論法で行けば「仏教は四苦(生・老・病・死)を説いているから、仏教は生の喜びを否定する、苦しみのみの人間観だ」となってしまいます。
キリスト教の専門家の見解を見てみましょう。神学博士、元神奈川大学教授、司祭でもあった、犬飼政一の『人間にとっての労働-そのキリスト教的理解-』から引用しておきます。
“あなたは一生、苦しんで地から食物を取る”(創 3)。この一節から人間の労働は神の罰、人間の宿命として誤解されてきたが、これはむしろ人間の労働の蹟罪的性質を示すものである。もともと旧約聖書では、人間にとって労働は神の創造の働きに参与し、完成させることであり、神のわざは人間の労働によって継承されるということであり(創1,0,7)、労働は人間存在の基本的規定である。だから人間は自己の実存とその尊厳のゆえに働くものである。”すべて主をおそれ、主の道を歩む者はさいわいである。あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう”(詩篇128.1以下)とも言われている。労働における労苦と祝福は不可分なものである。
これを裏付けるように、むしろ敬虔なキリスト教徒ほど勤勉であり、仕事に神聖な使命感を持って取り組もうという、強い意志を感じます。
例えば、三大幸福論で有名なヒルティは、敬虔なプロテスタントですが、『幸福論』の中で、仕事の中にこそ幸福があることを説き、仕事に勤勉に取り組むこと、享楽を慎み質素な生活を送ることを、くり返し推奨しています。ヒルティの幸福論は聖書からの引用が非常に多く、これをもってしても、キリスト教が勤勉な労働を後押しすることはあっても、労働を苦役として忌避するものでないことは明らかです。
(松島 紀三男 イーハピネス株式会社 代表取締役)
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